地球規模で考え、足元から行動を起こせ――
それは情報過多時代に生きるすべての現代人にとっての課題だろう。紛争地をはじめ世界で「今、起きていること」を追ってきた気鋭のジャーナリストが、自らが育った「埼玉県」を新たな取材フィールドに選んだ。
深い樹林帯が現在は見通しの良い森に
東京の池袋から西へ向かう西武池袋線の車窓から山が見えるのは、関東平野を急行列車で40分も走ってからだ。埼玉県入間市の仏子(ぶし)駅手前からなだらかに続く山は、秩父山地へとつながっている。実際は最高でも標高約203メートルの加治丘陵という丘だが、仏子駅周辺の住民は「仏子山」と呼ぶ。私は幼少期からこの周辺で育った。
加治丘陵は、木々は木炭の原木、落ち葉は田畑の苗床に利用されるなど人々の暮らしを支えてきた里山だが、私が小学生だった1980年代には人の手はあまり入っていなかったようだ。
駅東側を流れる前堀川にかかる橋を渡るとすぐに樹林帯で、太くて大きな木が入り口にそびえ立っていた。深い茂みをかき分けるようにして進んでいくと、カエルの卵でいっぱいになる小さな沼があった。わずかに水が流れる沢にはサワガニがいた。子どもたちが「アリ塚」と呼んでいた高さ1メートル以上の謎の柱もあった。国内にそこまでの塚を造るアリはおらず、今思えば枯死した木の残骸だったのかもしれないが、おかげで小学生がそんな単語を知っていた。
現在の「仏子山」は見通しの良い森のようになり、それらはもうない。沼や沢は自然に消滅したらしい。茂みが深すぎて線路付近しか入れなかった樹林帯を今では小道が通り、尾根へと上がっていける。
加治丘陵では近年、市の事業で枯木の伐採や下草刈り、遊歩道などの整備が進んだ。丘陵内を通る舗装されたサイクリングコースは80年代に廃止され、ほとんど人はいなかったが、2021年1月の週末に1時間ほど歩いただけで30人以上すれ違った。人の手が再び入ったことで清々しい公園のようになった。
見通しの良い森のようになった「仏子山」(2021年1月16日撮影)
故郷とは自分の原点に戻っていく場所
小学生時代には、「仏子山」だけでなく、必ずクワガタが捕れた林や子どもたちに「底なし」と恐れられた沼もあったが、中学生になって部活でスポーツを始め、受験勉強に追われるうちにすっかり忘れた。住宅や駐車場になっていたことを知ったのは大学生になってからだ。
自然が消えたことよりも、目には入っていたはずなのに気にもしていなかった自分自身に喪失感を覚えた。好きなことを自由に楽しんでいた子ども時代から、決められたルールと価値観の中で優劣をつけられる仕組みの中に入っていった自分が、惰性でそれを受け入れ、意味を考えることも感じることもしなくなっていたことを自覚した。
世界で起きているものごとを知り、その意味を考え、自分なりの立ち位置を持てる人間でいたいと思った。記者になろうと決めたのは、そうすること自体が仕事であり、社会にかかわることにもなると考えたからだ。
四半世紀ぶりに歩いた「仏子山」はすっかり変わっていたが、自分の原点に戻っていくような感覚を与えてくれた。これを故郷というのだと思った。
安田純平(やすだ・じゅんぺい)
ジャーナリスト。地方紙を経てフリーランスに。イラクやアフガニスタン、シリアを取材。イラクで料理人として働き、民間労働者が戦争を支える実態を『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(集英社新書)に執筆。シリアで拘束され18年に40カ月ぶり解放。近著に『戦争取材と自己責任』(共著、dZERO)、『自己検証・危険地報道』(共著、集英社新書)など。
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