蟹江杏アトリエ日記vol.22 私の眼と絵の因果関係

お気に入りのいす

私は子どもの頃、線を描くことが好きでした。
子ども部屋の壁一面に貼られた模造紙に、何本も長い線を描いていました。
同時に私は幼い頃から虫が好きでした。
とりわけ蜘蛛は特別で、見つけると捕まえては一緒に遊びました。
それが高じて部屋に蜘蛛を飼うことにしました。

蜘蛛を捕まえて連れてくると、そのうち、電気の傘に蜘蛛の巣が出来ました。
蜘蛛が巣を作るにはまず、自分のいる所から建設予定地まで糸を張らなくてはなりません。
お尻から糸を垂らし、空気にのって目的地まで糸を張ります。
目的地にくっつくと、糸の上を往復していました。
糸を強くしてるのかなと思いました。

その後、蜘蛛はY字形に下がって、着地できる場所を見つけて、大きな枠を作ります。
そこを足場にして螺旋を描いていきます。
この作業を繰り返して、よく見かける蜘蛛の巣の形になります。
それは正確かつ素早くて、小一時間もあれば出来てしまいます。
スポイトでそっと濡らすと、水滴は美味しそうな飴玉のようでした。
幼い私にとって、蜘蛛という塊から、美しい線が現れて、巣が描かれる様は、まるで魔法でした。

美術学生時代は、こんな蜘蛛のような線が描きたくて、必死に練習をしました。
線への憧れはやがて空間や立体への興味にも広がりました。
石膏像を何千枚デッサンしたかわかりませんが、とにかく夢中になって描きました。

そんなに練習したのだから、
さぞかしものすごく精密なデッサン力があるのだろう・・・と思われがちですが、
それはそれは美術学校では劣等生で、まわりの学生達と比べても上達のスピードが遅く、
こんなに枚数を描いているのになかなか上達しない自分の下手さ加減に呆れるほどでした。
それでも絵を描く事が心の底から好きだったので、
どうにか人並み程度のデッサン力をつけたつもりです。

その苦労の理由が二十数年の時を経て、
最近解明される出来事がありました。

ある日の掃除の際、小学生の頃に初めてかけたメガネを引き出しで見つけました。
父が奮発して買ってくれた思い出のメガネだし、
1周2周して戻ってきた流行感もある鼈甲の丸ぶちのフレームだったこともあり、
アトリエ近くの眼鏡屋さんにレンズを交換しに行ったのです。

そこの眼鏡屋さんには、マニアックで丁寧な検査ができると評判の
検眼士さんがいるとの情報がありました。
店内に入ると、金髪で年の頃は50代くらいの男性が不機嫌そうに座っていました。
広い店内には埃をかぶったケースに数千はあるだろうメガネフレームが並べられています。

その昔、さぞかし華やかな眼鏡屋さんであったろうと想像できました。
店の真ん中には何故かパターゴルフの練習スペースや、高そうなバイクがあり、
それももう何年も使われていない雰囲気。
ふと、足元を見れば、空の段ボールやら古雑誌やら、
くちゃくちゃになった梱包材やらが無造作に置かれているし、
埃をかぶって黄ばんだスーパーファミコンまでもが置いてあります。

こりゃお客がほとんど来てない感じだし・・・
かなり怪しいし・・・どうしようかなとは思いましたが・・・
なんともいえない不思議な雰囲気に押されて、金髪男性に話しかけました。

「あの、手持ちの古いメガネフレームのレンズを交換していただきたいのですが・・・」
すると、やはり不機嫌そうに
「検眼しますか?」と聞かれたので、
なるべく笑顔で
「はい! お願いしたいです」と答えました。

ところが、
「うちは完全予約制ですので、今日は難しいです。次は明後日の午後になりますよ」
というではありませんか。
いやいや、絶対忙しそうではないじゃん!
いま検眼してよ、って思いながらも
その気迫に押され、2日後の午後に予約をしました。

検眼当日、時間通りに店に行くと、
同じ金髪男性が待っていました。
噂の検眼士って、この人なんだ・・・と思いました。
彼は前回よりもずっと笑顔で機嫌が良さそうだったので、少しホッとしました。

「では、2階へエレベーターに乗ってきてください」というので、
古いエレベーターに乗り込みました。
2階へ上がると1階からは想像もできない、
いかにも最先端で専門的で立派な検眼の機械やコンピューターが所狭しと並べられています。

部屋の隅には大きな事務机があるのですが、
その周りにはたくさんの工具がありました。
壁には国内外の数々の検眼に関する賞や資格の表彰状が埃をかぶったまま飾られています。
けれど、引き出しという引き出しは全て開けっぱなし、
机の上には書類や本、CDが散乱していました。

「こちらに座ってください」
いよいよ検査です。
今まで行ったことのある眼鏡屋さんでも眼科でもしたことのないような
検眼がはじまりました。

「眼球の形はいいですね・・・瞳孔もこのくらいの開き方なら問題ないです」
「あれ? 一部のここの視力が若干低い・・・もしかして無理矢理二重にしてますか?」
「してません! 天然ですっ!」
「あー、右目の上の縁の一部だけ何故だか視力が良いな・・・」
などなど。

とても大きなスクリーンを見ながらいろんな機械を使っての検査です。
ここまでやる必要ある?? みたいな眼についての詳細なやりとりが2時間以上・・・。

こりゃ、気軽に来れる眼鏡屋じゃないな・・・。
金髪男性は整理整頓が苦手な極端な検眼オタクで間違いないと認定。

検査も終わりに近づいた頃、
金髪検眼士が小首を傾げ出しました。
「おかしいなあ」
この頃にはすっかり雰囲気に飲まれていた私は
医者に何か宣告されるような不安な気分になり、
「あの・・・。先生、どこか私の目・・・おかしいのでしょうか」
と恐る恐る尋ねました。

淡々と静かに応える金髪検眼士。
「いや、片目ずつだとかなり視力が悪いのです。
この視力だと両目で見た時の視力も悪くなるはずなのに、
両目だと何故か1.3もあるんですよね。
それから一番良くないのは、蟹江さん、立体感覚がゼロに近いです。
機械の検査の数値も実際のアナログ検査でもほとんど立体が正常に見えてません。
何というか片目で見ている状態に近いので・・・
世界がレイヤーや写真のように見えてるかもしれませんよ。
ま、運転はできないでしょう。
それから、階段や道路でも気をつけてください」

えーーー、突然の宣告。
そうだったのか・・・今までの何かが私の中で全てストンと落ちました。
たとえば、車によく轢かれそうになること。
急な階段が怖いこと。
3D映画が全く見えないこと。
距離感が掴めなくて球技が怖かったこと。
そして、美術学生時代、
立体感について、何度先生に説明されても
最後までそんなふうには見えなくて、
上手く描けなかったこと。
私の絵はいつも平面で構成されていること。

そして、幼い頃から
蜘蛛の糸がレイヤーの如く重なる様が
大好きで何時間も見ていたこと。

それは、
画家を目指した若き頃の私が聞いたらショックで立ち直れない検査結果でしたが、
今の私には、むしろ気持ち良く
良い意味で開き直った気分になりました。

「いやあ、先生、ありがとうございます。自分の眼がどんなか知れてよかったです。
絵を描くのが好きな理由も、
ダメな部分を知らず知らずに強みに変えて描いていた自分にも気がつけて、
自信にもなりました!!
で、本題の今回作っていただくレンズですが・・・
今の手持ちのメガネの他、
どんなレンズにしたら良いですか。
立体がよく見えて、やはり中近? 遠近のが便利ですかね?」

金髪検眼士はニヤリと笑いながら言いました。

「検査結果からすると、
ま、今回は老眼鏡ですね。
ろ・う・.が・.ん・.きょう」

なにぃー、老眼鏡ですとっ!?
そっちの話のほうが、
今の私にゃショックだわ。

はあ、2時間半のカリスマ検眼士の検査で、
こんなに赤裸々にいろんなことがわかったのに、
結果、すすめられるのが
老眼鏡だなんてひどい!
と、喉まで出かかりましたが・・・深呼吸。

やはり今回は現実を受け止める事にして・・・
子ども時代の思い出のメガネフレームに
高級老眼用レンズを入れる注文をしてしまった私でした。

お気に入りのいす

タイトル:「お気に入りのいす」
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