蟹江杏アトリエ日記vol.6  奇妙な美術教室#2

あんずの花里物語

思わず微笑んでしまうリリカルな画風で大人気の蟹江杏の世界観を、作品とエッセイでお届けします。

「小さな家と大きな木」
 

前回のお話の続きです。
私から奇妙な家の話を聞いた母は、
その美術教室に偵察を兼ねて、
あのおっさんに話をつけに行ったようでした。

「松本先生に会いに行ってきた。
先生は月謝いらない、とおっしゃったけど、そういうわけにいきません、
と言ったら月1000円でいいよ、と言われたよ。
あんた1人じゃなんだから、
Rちゃんと一緒に通いなさいね。
芸大を出たすごい先生らしいわよ」

あんた1人じゃなんだから・・・
の「なん」って一体なんだろ、
あの小汚さで芸大出身ってホントかよっと、子どもながらに思いました。

Rちゃんは幼稚園から一緒の仲良しです。
彼女は私よりずっとしっかりした子だったので、
うちの母はRちゃんのママを巻き込んで、
私が1人でフローレンス美術教室に行くのを回避したのでしょう。

母がおっさんを「先生」とよんだり、
Rちゃんを勝手に誘ったりしていることを当時は不思議に思いましたが、
それでもあのお家の中に入れるかと思うと、ワクワクしました。

初めてのお教室の日、
時間になるとRちゃんが家に迎えにきました。
彼女は無口で滅多な事じゃ笑顔を見せないという変わった女の子でしたが、
何故か波長があうので、
私たちはことあるごとに一緒でした。

絵の具箱をカタカタさせて、
私だけがまるで独り言のような
愚にもつかない話をしながら
2人で土手沿いを歩いて向かいました。

門の前まで来るとあるはずの
「フローレンス美術教室」の看板が見当たりません。
その代わりに前回はなかったはずの看板がかかっています。

「松本進美術教室」
白く塗られたベニヤ板の切れ端に
なんとも言えない太い蛇のような筆文字で書かれた看板でした。
なんと、美術教室の名前が変わってしまっていたのです。

この街で一番お洒落な名前の美術教室・・・
クラスのみんなに
「私、フローレンスの生徒よ」
と自慢する自分の姿を何度想像したことかっ!

それが、あのおっさんのフルネームが
教室名になってしまっているではありませんか。
「私、松本進に通っているのよ」
なんて言ったら、蟹江杏がダッサい名前の教室に通っていると
噂が広まるに決まっています。

ガッカリしていると、あの時とまったく同じ格好をした彼が現れました。
門をくぐると異国風の庭があり、
植物の間の至る所から奇妙な素焼きの置物が見え隠れしています。

庭を挟んで小さな家と、さらに小さな小屋がありました。
小屋には、かがまないと入れないだろう低めの扉と
ドッジボールくらいのサイズの丸い窓があり、
それがとても魅力的に小屋の内部を想像させます。

私はどうしても中に入ってみたくなりました。
「先生、あの小屋はなんですか?」
彼はニコリともせずに答えました。

「ああ、あれは息子がいた頃、
嘘をついたり万引きしたときに閉じ込める
お仕置き小屋に使ってたんだよ。
窓から見てごらん。象の鼻で人間の子どもなんて串刺しだぞ」

彼は木箱を窓の下に置くと、
私に中を覗くように言うのです。
ゲゲ、聞かなきゃよかった、
いよいよやばいな・・・と思いつつ、
Rちゃんと私は促されるまま
順番に木箱に登り顎を突き出して、窓から中を見ました。

そこには、何体もの象の頭の彫刻が長い鼻を天井に向けて
床にびっしり並べられていました。
白い外壁の小屋の、
たった一つある窓の先に
真っ白な象の頭が沢山あるのです。
象の目は一斉にこちらを逆さから見ています。

そこに閉じ込められることを想像しただけで、
それは残酷で恐ろしい光景でした。
けれど、私は、同時に
そうされてみたい衝動にかられるような、
生まれて初めて味わう種類の甘く危険な美しさを感じたのです。

教室は日当たりの良い母家の2階でした。
2階といっても、屋根の上に作った四畳半くらいのスペースで、
表から手作りの階段で上がるのです。
部屋には古い小さな黒板があり、
チョークで「赤、青、黄色」と書いてありました。

いよいよ生徒2人の松本進美術教室がはじまりです。
おっさんは相変わらずニコリともせず
「君たちは俺の子どもでも、ましてや恋人でもないから、
別に優しくなんてしないよ」と前置きすると、
3色の絵の具と使い古した一本の筆と
画用紙を私達に配りました。

こっちこそあんたの子どもでも恋人でもなくてほんとによかったわ、
と思いましたが口には出しませんでした。
彼は熟れすぎて半分茶色くなったバナナをハンカチの上に乗せました。
「これを、この3色とこの筆だけで描いてごらん」
そういって、部屋を出ていってしまったのです。
腐ったバナナなんて、
なんで描かなきゃなんないの!?
このバナナ絶対食べ残しに違いない、と思いました。

よく晴れた日曜日、
奇妙な家で、
小さな女の子2人は、
言葉も発せず黙々と腐ったバナナを
描き続けました。

こうして、おっさんと私のおよそ30年に及ぶ
摩訶不思議な美術の時間がはじまりました。

あの沢山の象さんの彫刻は、
実は、現在私の軽井沢の森の
アトリエの庭にあるのです。
なぜ、象の彫刻を譲り受けることになったのかについては、
次回お話ししたいと思います。

「ハンプティ ダンプティ」

タイトル:「小さな家と大きな木」
サイズ:390×380mm
シート価格(税込):143,000円
額装価格(税込):187,000円

※別途、送料がかかります。
販売数量: 3枚限定
お届けの目安:約3カ月



蟹江杏コレクション

執筆者プロフィール

蟹江 杏(かにえ・あんず)

画家。東京生まれ、埼玉県飯能市の「自由の森学園」を卒業。「NPO法人3.11こども文庫」理事長。ロンドンにて版画を学ぶ。美術館や全国の有名百貨店など、国内外で多数の展覧会を開催。東京都の新宿区・練馬区・日野市をはじめ各地の都市型アートイベントにおいて、こどもアートプログラムのプロデュースを手掛ける。東日本大震災以降は、「NPO法人3.11こども文庫」理事長として、被災地の子ども達に絵本や画材を届けたり、福島県相馬市に絵本専門の文庫「にじ文庫」を設立するなどの活動を行う。また、2020年からは「SDGs JAPAN」と連携し、アートやアーティストがどのようにSDGsに貢献できるかを、様々な分野のアーティストとともに模索、牽引している。

https://www.atelieranz.jp

蟹江 杏
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